【お知らせ】10月3日の宇治市総務常任委員会での住宅支援継続請願についての参考人質疑の報道です!

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by fukushimakyoto | 2016-10-11 01:27 | 避難用住宅問題 | Trackback | Comments(0)

新聞報道から(12・2年越しまつり)

奧森です
昨年12月2日に開催しました、第2回年越しまつりについて、週刊MDSで報道されていましたので、転載します。
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避難者のつながりを大切に
京都で年越しまつり

週刊MDS 2012年12月14日発行 1260号

 12月2日京都市内で、第2回年越しまつりが開かれた。原発事故からの避難者や支援者でつ くる「うつくしま☆ふくしまin京都」が主催した。

 昨年のまつりは、ミュージシャンなど多くの支援者が駆けつけ、避難者を励ました。今年の特徴は、避難者がいっしょにまつりを作り出したことだ。

 合計4回の餅つき大会では、幼児から小学生まで参加したすべての子どもが杵を振り下ろした。

 音楽も避難者自前だった。ハーモニカによる唱歌『もみじ』『旅愁』の演奏は、『ふるさと』の大合唱に結びついた。仮装姿で登場した2人のママは福島弁の 即興「漫才」で会場をわかせた。篠笛とキーボードによる創作曲『ほめて』の歌でしめくくった。

 「月桃の花」歌舞団が指導したエイサー体験も好評だ。大人も子どもも初めて持つ太鼓だったが、瞬く間に『豊年音頭』を演じきった。

●不安はがれき焼却

 「まつりは楽しく、子どもも喜んでいた。避難して孤独にならず、みんなでつながっていけるのは、有難いことです」「みんながつながって行動していくし か、日本は変わらないのかなと思う」「年末から春にかけて、また福島に戻るのかどうかと悩む時期がくるかも知れませんが、親子の絆、支援者との絆を大切に して、新しい年を迎えたい」

 避難者からはまつりに感謝する言葉が相次いで出された。しかし、共通の懸念、不安として指摘されたのが橋下大阪市長による放射能汚染がれきの試験焼却 だ。

 「京都にきて外遊びができる。被曝しないのがうれしいと思っていたのに、橋下は市民の反対を押し切って強行した。ほんとうに頭にくる。来年2月からの本 焼却をどうしても止めたい」

●支援法に当事者の要求を
 
 参加したほとんどの避難者は11月28日の復興庁職員を招いた公聴会で意見を述べた。

 「うつくしま☆ふくしまin京都」の奥森祥陽さんは「来年1月末か2月はじめに、原発被災者支援法に基づく基本方針が明らかになる。それが被災当事者の 要求を反映したものになるよう、今後も継続して取り組んでいく」と語る。

 当面は12月11日に京都市に対して支援策の先取り実施を求める要請行動を行う。

 来年1月から2月に、基本方針・具体的施策に被災者の意見を反映させる集いを京都で開催するように復興庁に強く要請する。

 避難者が人間としての当たり前の生活を取り戻す闘いは正念場を迎えている。
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by fukushimakyoto | 2013-01-09 00:05 | 報道関連 | Trackback | Comments(0)

毎日新聞の記事から「除染の現実と模索」

風知草:除染の現実と模索=山田孝男

http://www.mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/news/20111017ddm002070110000c.html

 木村真三(44)は原発被災地の「赤ひげ」である。福島の高線量地域に住んで住民の相談に乗り、除染の先頭に立つ。

 独協医大准教授(放射線衛生学、医学博士)。厚生労働省所管法人の研究者だったが、原発禍の初動調査を制止され、即刻辞任。3月15日から現地に入り浸り、実地調査にもとづいて放射能汚染地図を作製、住民支援に駆け回ってきた。

 その活躍はNHK教育テレビのETV特集で3回にわたって紹介され、大反響を巻き起こした。知る人ぞ知る。

 その木村にして「除染は困難を極める」と言う。

 「特別な道具を使わず、個人で家屋をまる2日間、必死で除染しても、放射線量は半分程度にしか下がらない」

 「ホットエリア(局部的に線量の高い地域)では、一つの家を除染するのに、半径100メートルを除染しなければ(自然状態に近い)0・1マイクロシーベルト(毎時)まで下げられない。現実には不可能に近いと思います」

 首相が所信表明で「全力で取り組む」決意を示し、原発事故担当相が「経済性は度外視してでもやる」とフォローした除染の、それが現実だ。

 現実を知るには、まず放射線量を測らなければならない。先日、福島市を往復した際、出発時に「0」マイクロシーベルトだった筆者の線量計の目盛りが、1泊して帰宅すると「2」マイクロシーベルト。さらに3日間、自室に放置したら「6」マイクロシーベルトへハネ上がった。

 「東京も高いですね」と高名な専門家に尋ねたら、こんなご教示をいただいた。「自然放射線が毎時0・05マイクロシーベルトあるから当たり前。福島滞在24時間で2マイクロシーベルトはふつうです」

 筆者が携行したのは、身につけて外部被ばくの蓄積を見る線量計。大気中の瞬間線量を測る測定器とは機能が違う。国内製造大手・日立アロカメディカル社によれば、売れ筋の線量計が約3万円。測定器だと24・5万円。ともに品薄で、測定器は数カ月待ちだという。

 「震災前は年に数百個だったものが、今は毎月400個から500個出ます」(同社)。全国、とくに関東圏からの問い合わせが多いそうだ。

 さもありなん。近ごろ首都圏は高線量スポットと除染の話題でもちきりだから。

 赤ひげ・木村はこう言っている。「むやみにビビる必要はないが、正しい防御は必要。正しく怖がるべきです」

 この夏、京都五山の送り火から、セシウムのついた陸前高田の松材が締め出される騒ぎがあった。これなどビビり過ぎの典型だと木村は言う。

 原発震災直後、濃密な放射能雲が列島をおおった。それ以前の核実験やチェルノブイリも含め、日本列島は既に汚染されている。その濃度に比べれば、松の中のセシウムなど何十万分の1に過ぎない……。

 とはいえ、過度の被ばくが遺伝子を傷つけ、種の保存を脅かすという基本は変わらない。食品からの内部被ばくの制御も課題だ。正しい防御とは、正しい除染とは何か--。

 その答えを求め、木村はいま、ウクライナ・ジトーミル州のナロジチ地区に入っている。通算15回目になるチェルノブイリ汚染地域の調査だ。

 脱原発か、原発維持かを問わず、人類は、既に飛散した放射性物質と共存していかなければならない。それは決意表明や予算づけだけでは解決しえない難問であることを、理解しなければなるまい。(敬称略)(毎週月曜日掲載)
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by fukushimakyoto | 2011-10-18 01:27 | 放射能問題 | Trackback | Comments(0)

新聞報道~うつくしま☆ふくしまin京都

原発避難者の集い 京都 
苦しみを抱え込まず、避難者同士で確認
「避難という選択は正しかった」

週刊MDS 2011年07月08日発行 1189号

http://www.mdsweb.jp/doc/1189/1189_06a.html
 
 6月25日、京都で暮らす原発避難者をつなぐ集いが開かれた。今後のネットワークづくりへの弾みとなる感動的な集いとなった。なによりの成果は、避難者同士が「逃げてきた」という罪悪感や家族を残してきたことへの負い目を払拭し、避難という選択肢が正しかったことを確認し合ったことだ。

 「うつくしま☆ふくしまin京都」をタイトルにした避難者の集いは、「京都の原発避難者が集まれる場をつくろう」と企画され、「被災者本人にしか分からない痛みを、一人で抱え込まずに、共有しませんか」と呼びかけられた。

 手探りでつながり求めて

 会場ほぼ満杯となる約60人が集まった。多種多様な支援者、サポーターが参加した。生活保護ケースワーカー、保健師、精神保健相談士、保育士、医者。コピーライターから「車が必要ならいつでも連絡を」と申し出る人まで。

 避難者を囲む茶話会のグループ交流の冒頭は、「サポーターの方が多い。避難者がもっといると思ったのに」という話題になった。主催者の一人、奥森祥陽さんは「行政は避難者の資料を持っているが、個人情報保護を口実に教えてくれない。取り組みは手探りとならざるを得なかった」と報告。集いの案内チラシは避難者が住むと思われる府営住宅などにポスティング。直前になって福島ナンバーの車に注目すればよいことを発見。駐車場を回って福島ナンバーの車のワイパーにチラシを挟み込んだ。

 交流では、避難者が自らの抱える不安や苦しみを包み隠さず語った。

 「80歳の親は『この年で知らない土地に行くよりも』と近くの避難所を選んだ。一人で自炊していると思うと苦しいだけ。早く帰った方がいいのかなとも思う。京都弁を聞くだけで孤立する。つらい。それに言う機会もなかった。私たちは忘れられるのが一番こわいんです」

 「戻りたいと思うけど、向こう(福島)は何も変わっていない。政府の情報に屈したくない。何も知らないで抱え込んでいる人が多いと思う」

 ネットワークのスタート

 共通するのは、放射能汚染からの避難だ。

 茨城県から子ども5人と避難してきた夫婦は「6人目を妊娠中だった。放射能が怖くて、仕事もやめて、京都に来た。やっと住む所を確保した。でも行政は私たちを被災者扱いしてくれない。茨城県だからだ」と行政の対応を批判する。

 前夜車のワイパーのチラシを見て参加した福島市の女性は「福島市ではなかなか逃げ出せない。あの山下俊一(県健康アドバイザー)がデタラメを言いまくって、逃げることが悪いという雰囲気をつくっている」と紹介した。

 郡山市の20代の女性は、親を残して自分ひとりだけで避難してきたことにずっと戸惑いを抱え込んでいた。集いにはその母親も参加し、「この子は親のことを気にしているが、そんなことないのに」と説得。南相馬市から家族で避難した女性からも「南相馬では『あの人、逃げた』と言われる。男性の抵抗も大きい。でもあなたの選択は正しかったの。命をつなぐ女性として避難という道は絶対に正しい」。20代の女性は感激の涙をぬぐうことはなかった。

 交流会は避難者同士が久しぶりの福島の言葉で語り合う場に。サポーターはやりとりをじっと聞き入った。

 参加した原発避難者は7家族、11人だった。集いの最後に、お互いがメールアドレスや連絡方法を教えあった。不安を抱えての参加だったが、別れ際はさわやかな笑顔で手を振り「じゃー、またね」。

 奥森さんは「2人で始めてやっとここまできた。ネットワークのスタートです」。次回は7月23日午後、関西名物のたこ焼きパーティの予定だ。
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by fukushimakyoto | 2011-07-08 00:00 | 主催イベント案内&報告 | Trackback | Comments(0)