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希望の灯 ~3・11の福島に捧げる~

  希望の灯 ~3・11の福島に捧げる~

見上げれば 
どこまでも高い空と
はるかな稜線。
凛とした空気の中に 
かすかに感じる春の気配。
3月の福島は
そりゃあ、風も冷たいし 
雪もまだまだ降ります。

そして今年も あの日がやってきました。
みなさん おつかれさま。
本当に おつかれさま。
どんな思いで みなさんは
あの日から今日までを過ごしてきましたか?

突然の地震と
その後に押し寄せた津波。
家ごと 家族ごと流されて
なにもかもさらっていった自然の脅威。
そして さらにあの悪夢の始まりとなった原発事故。
まさか だれが
こんな生き地獄を想像したでしょう・・・?
まさか だれが
こんな震災の真っただ中に放り出されることを、想像したでしょう・・・?

私はあの日から一週間、
着替えることもお風呂に入ることもできずに
避難所で過ごしました。
わずかな手荷物を持ち、
放射能被曝のくわしいことを何も知らされずに
やっとの思いで娘2人と東京にたどりついた夜、
心身ともに、ものすごい心労で動けなくなりました。


勇気あるジャーナリストたちが
3月12日には測定器を持って福島に入り、
原発周辺地区を測定しました。
そして3月下旬、
東京で彼らの現地報告を聞いた時、私は完全にうちのめされました。
「双葉町のある病院では、放射能計測器の針が最大値をふり切った。」
―つまり、もはや福島原発周辺は、測定できないほどの放射線量であるー
ことがわかったのです。
ニュースでは「ただちに健康への害はない」と何度もくりかえし報道されていました。
しかしその事実を知った時、もう福島には戻れない、と悟りました。
私には守らなければならない娘が、二人います。
ニュースを見れば、
この期におよんでも事実を隠す国や東電の体質。
福島県民に対して、
~人命を守る~という誠意ある対応を示さなかったことにも
またもや私はうちのめされました。

この国は人を守らないのだ!
この国は子どもたちを守らないのだ!

事故以前も
事故直後も
私たち住民は
原発がどういうもので
事故が起きたら、どう身を守ればいいのか
一切教えてくれていません。

私は、考えつくだけ、ありったけの方法で情報をあつめ
自力で避難してきた後、
ここ東京・多摩へたどりつきました。
昔お世話になった方々のなつかしい顔に出会って
それまでの緊張がほどけて
はじめて涙がこぼれました。
ああ、希望を捨てずにここまでがんばってきてよかった!
多摩に来れてよかった!と・・・。


仕事のことや
住む家のこと、
生活の糧のこと、
子どもたちのこと、
健康のこと、
心のバランスが乱れたこと、
さまざまな悩みがありました。

どうしようもない喪失感とともに
それまでの私と
あの日以後の私がくっきりと分かれてしまい、
自分が何者かわからなくて
数か月は、心から笑えない日が続きました。
~生きるとは、なんとつらいことだろう~ と思いました。
しかし、多くの命が一瞬にして奪われたあの震災の中で
私は、生き抜いています。
いまこうして ここに立っています。
そのことに私は、ただ、ただ感謝していこう!
そして福島をはなれるとき
新しいところでもがんばってね!と
引っ越しの手伝いをしながら、
私の背中を押してくれた、たくさんの友人や仲間たちの分も、私は生きていこう!
そう思いました。

多摩にいるみなさん!
また東京近辺にいるみなさん!
今日は、あの3・11からちょうど1年目。
どうぞ
ヒロシマ・ナガサキ・第五福竜丸・東海臨界事故に続き、
多くの被爆者をだしたフクシマを忘れないでください!
1年、3年、5年・・・と経っていくうち、
人は昔のことを忘れます。
しかし フクシマは終わっていません。
こうして1秒、2秒と時間が流れていく間にも
福島の子どもたちは被曝しています。
今、私のポケットには線量計があります。
ここ多摩で、0,15マイクロシーベルト。
私が2週間前に行った郡山市の道路上で0,8マイクロシーベルト。
室内で0,2マイクロシーベルトありました。
福島の子どもたちは、首からガラスバッジというものを下げて、
ただデータを取るために実験台にされながら被曝しています。
そういった事実をマスコミはなかなか伝えません。
知っている人は知っている。
知らない人は知らないまま 過ごしています。
それは外部被曝だけの話です。

実は食べ物や水からくる内部被曝もあります。
ひとたび体内に入りこんだ放射線は細胞を壊し続けます。
チェルノブイリの事故の後、たくさんの子どもたちが
そのために甲状腺がんや白血病になりました。
そういった過去を 私たちは忘れてはなりません。
フクシマはまだまだ 続きます。

日本のなかでは
それが3年後、5年後、10年後にどう影響していくか
いまはデータがないため、誰も断言できません。
わかっているのは、少しでも遠くへ
早くその地から離れたほうがいいということだけ。
 
しかし国が「福島は安全だ!」といい続ける限り、
強制避難区域以外に住んでいる人たちは、
他県へ移り住む補償がなされていません。
そのことが福島にいる人々を
いまもずっと苦しめています。

私が最も恐れるのは
そうしたことを世間の人々が忘れていくことです。
フクシマの事故が
何事もなかったかのように、風化されていってしまうことです。
3・11は単なるイベントではありません。
私がこうして話しているあいだにも
福島の子どもたち・福島の仲間たちは被曝しています。
その事実をどうか、
同じ日本人である皆さんには、感じてほしいと願います。
それはここ多摩も同じです。
それは日本中の子どもたち全員にのしかかっています。


3・11がめぐるたび、
そこに住む人々が希望をもって生きていけるように
ともにつながりましょう。

何十年かかっても
もとの美しい自然がとり戻せるように、
安心してふつうにお水が飲めて、
安心してふつうに空気が吸えるように
努力していきましょう。

エネルギーの在り方を、ともに考えていきましょう。

あらゆる人が人として
安心して生きられる社会を創りだしましょう。

実は避難者を受け入れる住宅が、都内にはたくさんありました。
しかし民間アパートの借り上げは、
昨年末で終わりました。打ち切られました。
つまり、あと1年、あと2年しか、避難者の家賃は補償されません。
その後避難した人は、
どこに生活の糧をもとめ、どこに住むのか、
自分で決めなくてはなりません。
そういったことが、今なかなか報道されていません。

大変になるのはこれからです。
被曝だけではない!
生活のすべてが不安に押しつぶされそうになりながら、
避難者は日々います。
孤立しながら生きています。
そういったことを 少し想像力を働かせていただきながら
声をかけてください。


原発のために誰かが犠牲になったり、亡くなることがないよう、
避難した私たちの苦しみを
また別の地域の誰かが同じように受けないよう、
本当のことを知ってください。
どうしたらいいか、ともに考えあいましょう。


今日は はるかな福島にむかって
あなたのなかの光を送ってください。
絶望的な中でも、希望だけは失わないで!と
はるかな福島に想いを送ってください。
その想いは
ひとすじの光となって
さまざまな形となって
福島にとどきます。
私はそのひとつの架け橋になります。
福島とこちらを結ぶ架け橋になります。

どうか いまをともに生きるみなさん
あなたの中の 愛や想いを、行動に変えてください。
決してフクシマを風化させてはなりません。
つながりあって
3・11の悲しみから立ち上がり、
だれもが笑いあえる未来を、ともにつくりましょう!


2012・3・11

星ひかり
by fukushimakyoto | 2012-03-15 22:27 | 福島からのメッセージ